スウェーデン時代(1249〜1809年)
11〜12世紀にかけてフィンランドの周辺国では覇権争いが激化しました。以下、バルト海周辺の勢力です。
- スウェーデン:強固な君主制。中堅国として勢力伸ばす
- デンマーク:1219年に現エストニアの首都*タリンを建設
- ノヴゴロド:現ロシアの起源とされ、強大な軍事拠点
- ドイツ騎士団:バルト海にて勢力拡大図る。デンマークと抗争
*「デンマークの城」を意味します。
こうした勢力が周辺にありましたが、フィンランドはどこにも与することがありませんでした。一方で、それぞれから影響を受けることが多かったようです。これによって当時のフィンランドは、スオミ(Suomi:現在のフィンランドに該当)、ハメーンリンナ(南部)、カレリア(東部)に分かれていました。
12世紀半ば、当時のスウェーデン国王エリック(Erik)はヘンリー司教(Henry)の帯同によって、フィンランドに十字軍を送ります。これがスウェーデン統治の最初のきっかけと言えます。そして、フィンランドに初めて建てられた大聖堂がトゥルク(Turku)大聖堂です。1229年のことです。ちなみに、トゥルクという名前はフィンランドでの呼び方で、スウェーデン語ではオーボ(Åbo)と呼ばれます。
この当時のフィンランドの周辺には、まず東部にキエフ公国(現ウクライナ)、ノブゴロド国、そしてその背後にビザンツ帝国(現トルコ)がありました。そして南西部ではトゥルクを中心にスウェーデンの影響がじわじわと入ってきます。トゥルクは宗教の中心地であると同時に、政治的権力の中心でもありました。

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こうして1249年からフィンランドはスウェーデンによる統治が始まりました。スウェーデンからフィンランドへの入植を奨励するために、スウェーデン人への優遇政策が取られます。例えば、納税の免除など。こうして瞬く間にスウェーデン人がフィンランドに入り込み、かつフィンランドの社会階級のトップにスウェーデン貴族が組み込まれます。言語政策も行われ、スウェーデン語の影響力が増しました。特に、フィンランド南西部とフィンランド湾岸部に住む人が多く、これが今も少数ながら(人口比5%程度)スウェーデン語話者がいる理由です。
13世紀にはスウェーデンとノヴゴロド国で抗争が始まります。土地の奪い合いが主な原因で100年ほど続きました。結果として、北部から西部にかけての国境線が確定し、これは今のサンクトペテルブルクからオウル(フィンランド中部:ボスニア湾)までです。これを受けてより一層スウェーデンの影響が増しましたが、フィンランド人との間には平和的な関係が続きました。
17世紀になると、スウェーデン王国の全盛期を迎えます。トゥルクは公国としてさらに繁栄を遂げます。ロシアからの侵略に備えてトゥルク城を中心として都市開発が進みました。1640年にはトゥルク・アカデミー大学(フィンランド最古の大学)も建てられました。
こうしたスウェーデンの黄金時代はそう長く続くことはなく、終わりの時間が刻一刻と近づいてきます。スウェーデン統治に陰りが見えた大きなきっかけは「北方大戦争」です。ロシアに敗北したスウェーデンはフィンランド割譲こそ免れましたが、賠償金を負い、後退の一途を辿ることになります(ニスタット条約)。
19世紀になるとヨーロッパの情勢に変化が起きます。「ナポレオン戦争」です。これにて大敗を喫したスウェーデンは、バルト海での覇権を失うことになります。ナポレオン戦争の講和条約としてロシアとフランス間で結ばれたティルジット条約で、ロシアはバルト海で自由に勢力拡大することを許されました。そして、1808年にロシアがフィンランドを攻めます。これが決定打となって、スウェーデンは1809年にフィンランドをロシアに割譲することになりました。
7世紀ほどに渡って保たれたスウェーデンによる統治はこうして幕を閉じました。
そして、次は「ロシア時代」がやってきます。


文筆家、写真家、イラストレーター。学部時代のスウェーデン留学が大きな転機となり、北欧のウェルビーイングを身体で学ぶべく、ノルウェーとデンマークの大学院に進学。専門は社会保障、社会福祉、移民学。2021年6月両国にてダブルディグリーで修士号取得後、帰国。現在は、アニメーション業界に飛び込み、ストーリーテリングの観点から社会へ働きかけるべく活動を広げている。フリーランスとしても活動している。又、北欧情報メディアNorrから派生した「北欧留学大使」を主宰し、北欧留学支援もしている。
■これまでの活動歴:「令和未来会議2020”開国論”(NHK)パネリスト出演」、「デモクラシーフェスティバル2020(北欧5カ国大使館後援)イベント主催」、その他講演多数