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フィンランド / Finland 歴史 / History 記事 / Article

みんなが知らないフィンランドの歴史

ロシア時代(1809〜1917年)

 

1809年よりフィンランドを支配下に置いたロシア帝国。スウェーデンはフィンランド統治期間、スウェーデン語政策などを推し進めましたが、ロシアはどうだったのでしょうか?当時のツァーリ(皇帝の意味)であったアレクサンドル1世はフィンランドと温厚な関係を築こうとしました。あくまでもフィンランドを、スウェーデンとロシアの間の緩衝国として機能させるためにあまり刺激しないようにしていたのかもしれません。

スウェーデン統治下に形作られたスウェーデン由来の法制は依然として継続することを認め、ルター派教会(ロシア帝国はロシア正教会)へも手を付けませんでした。フィンランド議会も召集して、基本的な政治的権力を上院議員に委ねました。重大な問題のみアレクサンドル1世の承認を必要とした、といった程度だったようです。

ここからアレクサンドル1世がフィンランドの自治を促し、国として発展する後押しをしていたことがわかりますね。他にも、全国民への基礎教育の無償提供や、高等教育機関としての大学の設置、フィンランド独自の切手の承諾、独自通貨マルッカ(現在フィンランドはユーロを採用)の流通、フィンランド語の地位向上などがあります。更には、1812年には首都をトゥルクからヘルシンキへ遷都しました。

独立目前の話にはなりますが、1906年には一院制の議会(Eduskunta)が創設されました。同時に、同年に男女平等の参政権が付与されました。これはニュージーランド、オーストラリアに次いで世界で3番目であり、ヨーロッパにおいては初めて女性参政権が認められました。翌年1907年の選挙では、19名の女性議員が誕生しました。

 

 


ナショナリズムの高揚と独立への兆し

 

ロシア帝国の統治下であれ、ロシアは比較的寛容な態度を示しました。これがフィンランド人にどのような変化を与えたのでしょうか?

先に見たように、独自言語、独自通貨、独自切手などのフィンランド独自の政策が次々に認められました。首都もスウェーデンから遠ざかり、学術機関も持つようになる。フィンランド軍隊も編成されました。ここで、フィンランド人としての意識が芽生えます。独立への機運が芽生えた瞬間でした。

最初に声をあげたものの1つに、Adolf Ivar Arwardissonという人がいます。彼はこう言いました。

 

“Swedes we are not, Russians we will not be, so let us be Finns.”

Adolf Ivar Arwardisson

 

すなわち、「我々はスウェーデン人ではない、ロシア人になるつもりもない、そうだ、フィンランド人になろう」です。これを聞いたフィンランド人は自我の意識が生まれたのです。

そして、同時期にElias Lönnrot(エリアス・リョンロート)が出版したのがかの有名な『Kalevala(カレワラ)』です。カレワラは伝承に基づくフィンランドの民族叙事詩であり、これによってフィンランドの歴史や文化が書き起こされました。これを読んだフィンランド人、特に知識人らはフィンランド人としてのナショナリズムが高揚しました。

こうした流れを見てみると、フィンランドはロシア帝国下にありながらも社会的に発展を遂げているという見方ができると思います。しかしながら、ロシアからの圧政がなかったわけではなく、「ロシア化政策」と呼ばれるものがありました。当時のツァーリであったニコライ2世が推し進めました。

当時すでにフィンランド人としての民族意識が高まっていたフィンランド人はこれに反発します。知識人らがフィンランド人としての自我を覚醒させる作品を生み出しました。まずは、シベリウスによって作曲された『Finlandia(フィンランディア)』です。祖国フィンランドについて歌った曲です。アレクシ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela)という画家はフィンランドの風景画を描きました。これは先ほどのカレワラに出てくる情景を描いたものと言われています。こうした知識人らの芸術運動が民衆の自我を目覚めさ、一気に独立の機運が高まります。

1917年についにその時が来ました。「ロシア革命」です。このロシア革命は日本史においても重要な出来事ですが、ロシア革命と一口に言っても「第一次」と「第二次」に分けられます。1904年に勃発した日露戦争最中で起きたのは「第一次ロシア革命」であり、フィンランドの独立に関わるのは1917年に始まった「第二次ロシア革命」です。2月革命とも呼ばれます。

ロシア国内が混乱のなか立ち上がったフィンランドは、同年12月6日に独立宣言をしました。長きに渡ってスウェーデン、ロシアの統治下にあったフィンランドがようやく独立を獲得しました。1ヶ月後の1908年にロシアより独立を承認されました。

 

 


独立後の歩み

 

極寒の冬の中、独立を果たしたフィンランド。新たな門出の矢先、大きな問題が立ちはだかりました。

「共和制か、君主制か」

7世紀に渡って他国の支配下に置かれていたフィンランドは、それから解放されると社会システムのあり方に頭を抱えました。

「The Reds」という左派は労働者階級を多く有しており、ロシア寄りの社会主義思想を持っていました。一方で、「The Whites」は右派政府軍としてドイツに倣った君主制を目指します。ここで大きく対立しました。当時は第一次世界大戦でありましたが、レーニン率いるロシアは「The Reds」へ武器と軍隊を送り、支援しました。そして、左派・右派が激突しました。ロシアは左派を支援し、マンネルヘイム(Mannerheim)率いる右派へはドイツが支援します。108日間に渡って勃発したこの内戦は、結果として政府軍である右派が勝利を収めました。

君主制を目指していた政府軍はこの勝利を機に、ドイツよりフリードリヒ・カールを国王として迎え入れカールレ1世として即位しました。ついに、フィンランド王国(Kingdom of Finland)が誕生したのです。

が、それも束の間、第一次世界大戦でドイツは敗北しました。これにより、カールレ1世はフィンランド国王を退位することになります。こうした経緯で、フィンランドは国王を持たず共和国になったのです。

初代フィンランド大統領にはストールべリ教授(K J Stahlberg)が就任しました。フィンランド憲法の草案に寄与した人です。1919年に作られたフィンランド憲法では、1905年に編成された一院制議会を持つことになりました。また、フィンランド語とスウェーデン語は公用語として認められたのものこの時です。当時フィンランド全体でおよそ11%の国民がスウェーデン語話者であったためです。

こうして社会的基盤を形作ってきたフィンランドは急速に発展を遂げることになります。当時は飲酒に対する規制が強化されていて、1919年に政府によって飲酒が禁止になりました。これは1931年に廃止なりますが、以降国営のアルコール販売企業が作られました。


 

 

戦間期、フィンランドはその勤勉さから多くの国に賞賛されました。1920年代終わりになると林業を中心として輸出ブームを迎えました。またその他分野では、スポーツにおいてPaavo Nurmiがオリンピック3大会を通して合計7つの金メダルを獲得し、フィンランドの国民的スターになりました。これが功を奏し、1940年のオリンピックではヘルシンキが開催地となりました(厳密には第二次世界大戦のため1952年に延期)。

 


第二次世界大戦下のフィンランド

 

独立してから順調に発展途上であったフィンランド。そんな最中起きた第二次世界大戦。隣国ソ連からの脅威が再び。独ソ不可侵条約によって、ソ連はフィンランドに侵攻する事ができました。そして、ソ連との冬戦争が勃発。マイナス40度の極寒での戦い。両陣営とも数千人規模の兵士が命を落としました。結局フィンランドが和平降伏して、カレリア地方(フィンランド南東部)をソ連へ割譲しました。

そして続く継続戦争。少数の兵力ながら奮闘したフィンランドはカレリア地方の奪還に成功し、更にはかつてソ連へ奪われた土地も取り返しました。しかし、またもソ連に圧倒され、結局和平交渉に持ち込むことになりました。

フィンランドとソ連の実力差は一目瞭然です。200万人のロシア兵に対し、わずか30万人という小規模のフィンランド軍。独立を維持するために多大なる犠牲を生む結果となりました。

 


コラム〜ヘルシンキの維持と意地〜
フィンランドで今も語り継がれるという大戦下のエピソードがあります。ヨーロッパ諸国のうち、第二次世界大戦に関与した国で、たった3つの国の首都のみが侵略を逃れたそう。それは、ロンドン、モスクワ、そしてヘルシンキだという。同時に、イギリスとフィンランドのみが1930年以降、対戦中であれ一貫して民主的な政府を維持できたんだとか。フィンランド人としてのナショナリズムと念願の独立を経て、フィンランドはより一層国として結束力が強まり、これがSISUという精神に繋がったのかも。
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