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[前編]ノーベル賞のA to Ö〜アルフレッド・ノーベルの生涯〜

(*The eye-catch image above is borrowed from © Nobel Media AB 2015. Photo: Pi Frisk

僕たち日本人にとって最も馴染みのある世界的な賞といえば「ノーベル賞」ではないでしょうか?このノーベル賞を創設したのはスウェーデンが生んだ実業家アルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel)です(正確には没後に彼の遺言によって創設されました)。

ノーベル賞だけではなく、ダイナマイトをはじめとする幾多の発明品を世に残したアルフレッド・ノーベルはどんな生涯を送ったのか、今回はそんな彼の生涯に迫っていきます。

「ノーベル賞のA to Ö*」と題して、前編・後編の2本立てでお送りします。文中での「ノーベル」はアルフレッド・ノーベルを指します。

*スウェーデン語で使われるアルファベットは29文字でその最後にくるのがÖです





ノーベルはどんな家庭で生まれ育った?


© The Nobel Foundation
Painted by Emil Österman

アルフレッド・ノーベルは1833年10月21日に、スウェーデンの首都ストックホルムで生まれました。ノーベルの父イマニュエル・ノーベル(Immanuel Nobel)はエンジニアであり、発明家でした。父の存在がノーベルの生涯の大きな道筋を作ったといえそうです。

ノーベルの母アンドリエット・ノーベル(Andriette Nobel)は裕福な家庭出身でした。ノーベルの父イマニュエルの事業が倒産に追い込まれた際には、日用品店を営み家庭を支えました。

ノーベル家は両親と4人兄弟の6人家族で、ノーベルは3番目の子として生まれました。2人の兄は、ロシアにて石油産業で成功を収め、弟に関してはノーベルとのダイナマイトの実験中に不運にも亡くなってしまいます。

ノーベル生誕当時、父はロシアのサンクトペテルブルクで会社を興し、のちに機械業で成功を収めました。ロシア海軍へ軍事装備を供給していたこともあり、当時のロシアのツァーリや軍事司令官らと繋がりがありました。機雷を使うことで、敵軍による侵入を防ぐことができるとし彼らを説得させました。事実、1853年に始まったクリミア戦争では、イギリス海軍の侵入を防ぐことに成功しました。




ノーベルの青年期


父のサンクトペテルブルクでの成功から、ノーベルは青年期の多くの時間をロシアで過ごしました。教育熱心であったノーベル家の方針から、家庭教師のもとで勉学に励みました。自然科学から言語、文学など幅広く学んだそうです。17歳の時には、母語であるスウェーデン語に加えて、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語を流暢に扱うことができました。




ニトログリセリンとの出会い


家庭教師のもとで勉強に励んだノーベルは、特に物理学、化学、文学に強い興味を持っていました。文学の道へと進むことに反対していた父は、ノーベルをエンジニアの道へと進めるために留学させます。スウェーデン、ドイツ、フランス、アメリカへと渡り歩くこととなります。

パリではイタリア人の化学者アスカニオ・ソブレロ(Ascanio Sobrero)と出会い、これがノーベルにとって大きな分岐点になります。ソブレロは1846年に、破壊的な爆発力を持つ「ニトログリセリン」の合成に成功した化学者として有名です。しかし、使用が極めて危険であるとされ、実用化が難しいと考えられていました。

この出会いを機に、ノーベルは実用化に向けて研究を進めます。極めて強い爆発力を持っているため、建設業などで有用であると考えたノーベルはロシアに帰国後も父と研究を続けました。同じ時期に、父の会社が低迷し、ストックホルムへ帰ることになります。


© The Nobel Foundation


スウェーデンへ帰国後もニトログリセリンの実用化を進めました。幾多の失敗(実験に際し、弟エミルと数人の命を失いました)を繰り返したものの、諦めることなく信念を貫きました。そして、1864年にニトログリセリンの大量生産に成功し、1866年にはダイナマイト(写真上)の発明に成功します。

のちに戦争での誤用に使われてしまうダイナマイトですが、この発明によりトンネルの採掘や岩の爆破、橋建設などでの大幅なコスト削減に貢献しました。

建設業でのダイナマイトの需要が高く、ノーベルは20カ国90箇所に工場を立てました。スウェーデン、ドイツ、スコットランド、フランス、イタリアを飛び回り、熱心に働きました。当時の彼の様子を「ヨーロッパで一番裕福な浮浪者」と呼ぶ声もありました。




ノーベル平和賞ができたわけ


ノーベルは生涯独り身でした。そんなある日、秘書を雇うために新聞社に問い合わせました。そこでオーストリアの女性ベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner)と働くことになります。のちに彼女は婚約のためにオーストリアに帰ることになります。その後も2人は文通を交わす仲であり続けました。

彼女は平和主義者として活動を広げ、有名な著書「武器を捨てよ!(Lay Down Your Arms.)」を刊行しました。彼女との交流がノーベル平和賞創設に大きく影響しているとされています。事実、ズットナーは1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞しています。




晩年のノーベル


ノーベルは1896年12月10日に、イタリアのサンレモ(San Remo)で最期を迎えました。彼の遺言には、彼が残した莫大な資産を、人類の進歩に大きく貢献した人(たち)に使って欲しいとありました。その中でも特に、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和に対して功績を残した人に賞が与えられることになりました*。1901年に第1回の授賞式が行われ、現在も毎年12月10日(ノーベルの命日)に授賞式が執り行われています。

*現在のノーベル経済学賞は彼の遺言にはなく、のちに新しく設けられた部門です。




ノーベルが世に残した遺産


ダイナマイトの発明やノーベル賞の創設など今も語り継がれる功績を世に残したノーベルですが、他にもたくさんの遺産を世に残しました。実に355もの特許を取得したそうです。

ノーベルによって創設された会社の多くは現在も世界経済に大きな影響力を持っています。イギリスのImperial Chemical Industries (ICI)、フランスのSociété Centrale de Dynamite、ノルウェーのDyno Industries などがそれに当たります。


1901年第1回ノーベル賞授賞式の様子
© The Nobel Foundation




今もなお大きな影響を与え続けているアルフレッド・ノーベル。その生涯について見てきました。人との出会いがノーベルの人生の大きな岐路となったと言えそうです。そして、彼自身の類まれな努力量が功を奏し、他分野で社会に貢献してきました。

[後編]ノーベル賞のA to Ö〜ノーベル賞のカコとイマ〜」も続けてどうぞ!




参考:

THE NOBEL PRIZE「Alfred Nobel’s life」https://www.nobelprize.org/alfred-nobel/biographical-information/

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