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【第1章】教育にみる『タテな日本』と『ヨコな北欧』

日本にみるタテな教育文化

 

偏差値教育が生むタテ社会


 

日本の教育と深い根っこで繋がっているものに「偏差値」という指標がある。高校や大学の志望校一覧には必ずと言っていいほど偏差値を中心にして学校が散らばっている。この表の上部分を眺めながら志望校を決める受験生も少なくないだろう。つまり、ここに日本の教育システムの「タテ」がみられる。

共通の認識として、偏差値50はちょうど真ん中に位置し、高くなるほど同様に学力が高くなるという理解が普く広がっているように思う。本当だろうか?そもそも、「偏差値」とは何なのか?この問いに答えられる人がどれだけいるだろうか?なぜ偏差値が持ち出されるようになったのか?

まずは、そこを確認していきたい。

 


偏差値とは?


 

今でさえ、日本では誤って「学力」を表す指標として使われてしまっているのだが、他にも身長などでも活用されている。「偏差値」とは、あるグループでの特定の事柄に対するバラつき具合を相対的に数値化したものである。少しわかりにくいので、噛み砕いていく。以下の例で考えてみる。

 

  • Aくん:平均50点のテストαで、80点を取った。
  • Bくん:平均50点のテストβで、70点を取った。

 

一見するとAくんの方が優秀にも見えるが、この点数を偏差値で表すと、例えば、Aくんが偏差値65で、Bくんも偏差値65ということもあり得る。つまり、この場合、Aくんと同じテストを受けた人たちの点数は平均の50点に近い密集した形となっている。逆にBくんと同じテストを受けた人たちの点数は平均の50点より離れて散らばっている。

 

 

さらに、偏差値は「正規分布(上記のようなM字ではない分布)」の場合に有効であり、各偏差値帯の割合は決まっている(例えば、偏差値70以上の人の割合は全体の2.28%)。あくまでも分散を数値にしたものであるので、その数値を本質的な学力として見做すことは妥当とは言えない。

実際の日本のトップとされる大学で考えてみる。河合塾の「2020年度入試難易予想ランキング表」を参照すると、東京大学(文科一類)の偏差値は67.5であり、早稲田大学(法学部)の偏差値も同じく67.5である。これを同じ偏差値67.5としてしまうのは、あまりにも短絡的だ。受験での科目数が違う上に、例えば、東大模試などでの偏差値が60であったとしても、それはその受験者の中でのみ当てはまるもので、それ以外の受験者も含めた場合その数値は変わってくる。

 

いつしか学力を示す指標として独り歩きしてしまった偏差値は、どんな経緯で使われるようになったのか?

「『超』東大脳 偏差値にとらわれない生き方(茂木健一郎:著)」によると、偏差値を持ち出したのは桑田昭三氏であって、もともと高校受験の進路指導において合格確率を科学的に判断する方法として1960年代に使われるようになった。つまり、中学浪人をどうにかして減らしたいとの教師心から導入に至ったという経緯がある。

そんなある種の親心から広まった偏差値は、その利便性からいつしか学力を表す数値として独り歩きしてしまったのだ。

 


偏差値に振り回される受験生


 

この偏差値という指標がどれほど受験生の進路決定に影響を及ぼしているのかをみていきたい。以下のグラフは、2014年に986名の学生を対象に行ったモバイルリサーチの調査である。2014年と少し古いデータであるので、参考程度に留めておいてほしい。

 

上記サイトを元に筆者作成
©︎北欧情報メディアNorr

 

以上のグラフをみると、おおよそ3割の学生が「偏差値」という指標を元に志望校を決定していることがわかる。これほどに受験において偏差値が大きな影響力を持っていることがわかるだろう。

もう1つの調査を見てみたい。下記グラフは、明光義塾を展開する株式会社明光ネットワークジャパンが2017年に行った調査である。中・高校生を子どもに持つ保護者700人を対象にしたもので、子どもの進学・進路についてのアンケート調査から志望校を選ぶ基準について聞いたものを抜粋した。

 

上記サイトを元に筆者作成
©︎北欧情報メディアNorr

 

この調査からわかるように、39%の保護者が受験において「偏差値」に重きを置いていることが分かる。

上記2つの調査をみてわかるように、「偏差値」という指標が年齢に関わらず、志望校を決定する上で大きな判断材料になっていると言える。

 


偏差値の限界


 

これまでみてきたように、偏差値は分散を相対的に数値化したものである。それ自体には意味があるのかもしれないが、学力という点からすると疑問が残る。

これはある種、受験者を背の順に並べて、背の高い人から順に合格のハンコを押しているようなものである。受験において、数字の客観性に重心を置いても良いものなのかという議論の余地が残る。つまり、1つの分野で突出したオンリーワンの人材が重宝される中で、どの分野でもある程度できるというオールマイティーの人材を生み出すのは今後どこまで維持できるのかということだ。そもそも、偏差値という1つの数字に客観性があるのかという点にも注目したい。

先程確認したQSの世界大学ランキングの上位に、日本のトップ大学がランクインしているので、「教育の質の高さ」と「偏差値」にはある種の相関関係がみられるのかもしれない。が、東京大学の22位というのがこの現実を物語っているだろう。

 


トップダウンな授業風景


 

続いて、現場について見ていく。多くの日本の学校の場合、教員1人に対して児童生徒数は十数人である。具体的には、文部科学省の「学級編制及び教職員定数に関する基本データ」によると、現行法では小中学校の義務教育において1学級当たりの児童生徒数上限は40人(小学1年生のみ35人)となっている。

OECD諸国の「Education at a Glance 2019」においては、日本の小学校の1学級当たりの児童生徒数の平均は27人、中学校では32人である。これはそれぞれOECD諸国の平均値の21人、23人よりも高い。

同様に、1教員当たりの児童生徒数においても日本の教育環境は平均値を下回っている。

こうなると、1人当たりの児童生徒に対する指導時間は極端に短くなる。これによって、教員から児童生徒への半ば一方通行な授業スタイルにならざるを得ない。特に小中学校の教員に関しては、学習指導と生活指導の両輪、そしてそれら以外での業務に努める必要がある。時間的な制約のもと一方的な授業風景が彷彿される。

大学においても、大教室での「講義」が主である限り、小中高校以上に教員1人当たりの生徒数は総体的に多くなる。1人の教授に対して、100人超の生徒が講義を受けるという形は日本では珍しくない。

ここで強調しておきたいのは、あくまでも日本の教育現場で見られる「タテな関係」はそのシステムが生み出すのであって、それに従わざるを得ない教員は、(ここにおいては)批難の対象にはなり得ない。

 


課外活動にみるタテ割り制


 

これまで授業に関するタテを見てきたわけだが、それ以外の課外活動においても「タテ」が見られる。小学校ではまだ少ないにしろ、中学校、高校と上がっていくにつれ、部活動という課外活動が盛んに行われる。この部活動では運動系、文化系、いずれにせよ上下の関係(いわゆる先輩・後輩)が生まれる。大学においても、部活動、サークルにおいて上下関係が大切にされる。

先に入った人であるほど偉い存在であり、後に入ったものは遜る、という暗黙の了解がある。詳しくは【第6章】言語にみる『タテ』と『ヨコ』で確認するが、日本文化に特有の「敬語」の存在がより一層これを助長しているように思う。

そこには年齢でみる「タテ」が存在するのであって、実力社会とは程遠い(もちろん、運動部ではスキルに応じた下剋上は頻繁に起こりうるが)。こうした課外活動での「タテ」の関係というのは、その延長線上にある社会での「タテ」に続くものであって、予行訓練とでも言えるかのような養成期間となっている。

ちなみに、1年間の浪人を経て大学に入った筆者からすると、現状、年齢での「タテ」を突破する唯一の手段は時空をずらすことである。

 

以上これまで見てきたように、日本には「タテな教育風土」が散見される。それは、例えば、学力の尺度として、又進路を決定する指標として多用される「偏差値」に見て取れる。教育現場においても教員1人当たりの児童生徒数を見ると、構造上タテな授業風景が思い起こされる。課外活動においても、その人間関係からその後の日本社会で必要とされる上下関係を否応無しに養うこととなる。

一方で、北欧にはどのような「ヨコな教育風土」があるのか。次節で詳しく見ていきたい。

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